旧長野地方裁判所松本支部庁舎
写真4:リニューアル前の庁舎
概要
  • 明治から昭和にかけて使われた建物を、1978年(昭和53)に取り壊されることになったが、市民運動によって移築、保存されることになった。
  • この裁判所は元は松本城、二の丸内にあった。
  • 完全な形で保存されているものとしては全国唯一。

写真5

写真6:法衣

写真11:法廷の進行をビデオで説明

写真7:廊下

写真9:会議室

写真8

写真10:法廷の様子

写真14:むき出しトイレの独房

写真15:蓋のあるトイレの独房

写真16

写真13

旧松本少年刑務所独居舎房
写真12
概要
  • 1953年(昭和28)に建設され、1990年(平成2)まで使われ、取り壊しになる少年刑務所の独房の建物の一部を復元したもの。
  • 現在、松本少年刑務所は旭町中学校の分校として制度化され、全国で唯一、受刑者に修業証書が渡されているという。(2004時点)

写真18

写真19

  • 工女たちを鎮魂しているかのようにも見える。

写真20:七夕の飾り(松本地方の七夕人形飾り)

写真21:「野麦峠」の像

野麦峠 工女宿 宝来屋
のむぎとうげ こうじょやど ほうらいや
写真17
概要
  • 明治から大正にかけて、政府の富国強兵政策のもとで生糸を生産する製糸業が盛んになっていった。
  • 長野県の諏訪地方でも製糸業が盛んだった。
  • 岐阜の飛騨地方から、工女と呼ばれた若い女性達が、50から100人の集団で列を作って、百数十キロの道のりを歩いて、北アルプスを越え、飛騨と信州の境にある野麦峠を越えると諏訪湖が見えた。
  • その野麦峠の麓にあった道中の工女を泊める宿の一つがこの宝来屋である。
  • ほとんど当時の材料のまま、遠く飛騨の山々を望めるここに移築された。
  • 今のような防寒具があるわけでもなく冬山を越え、たどり着いた先の工場の労働実態は想像を超える凄まじさのようだ。
  • 外出も許されないのは監獄と同じだが、監獄よりもひどいという。監獄は人を殺さないが、工場は人を殺す。働きに出た工女の死亡率は2%以上らしい。
  • それでも工女たちは生活のために働きに出なければならなかった。
  • 野麦峠の”野麦”は麦ではなく、この地方を10年に1度の凶作が襲ったとき、山をおおって生えている笹の実を粉にして食べたことからついた名だという。
  • 野麦峠は岐阜県高山市(旧高根村地域)と松本市の(旧奈川村地域)の境にある。現在でも冬季は通行止め。

写真23:工場内の機械

旧昭和興行製糸場
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概要
  • 生糸産業は時代の流れと共に、そのほとんどが廃業したが、一部機械化などで残っていた。
  • その中で、長野県下諏訪町の昭和興行は全国で唯一、目の前で蚕の繭から糸をとる座繰り製糸の工場を、1995年(平成7)まで操業していた。
  • その工場を譲り受け、設備を動く状態のまま、移築した。
  • そこで働いていた人たちは、すでにお年寄りが多かったが、誇りを持って、作業を行なっており、操業停止の日は別れを惜しんだという。

写真25:松本地方の七夕の人形飾り

木下尚江記念館
きのした なおえ きねんかん
写真24
概要
  • 明治時代の社会運動家・作家の木下尚江の生家
  • 1976年(昭和51)に解体、1983年(昭和58)に移築。

写真27:映画で使われた座繰機(蚕の繭から糸をとる)

  • これを見ただけでも泣けてくる。

写真29:映画「あゝ野麦峠」のダイジェストをビデオで

山本茂実展示コーナー
写真26
概要
  • 製糸工場で働いていた明治生まれのお年寄りたちに聞き取り調査したものをまとめたノンフィクション「ああ野麦峠」(正確には「あゝ野麦峠」)を1968年(昭和43)に出版した山本茂実の展示コーナー。(リニューアルで規模縮小(2007.07時点))
    • 山本茂実:
      • やまもと しげみ
      • 1917年(大正6)-1998年(平成10)
      • 松本市並柳出身
  • これを原作として映画「あゝ野麦峠」が制作される。
    • 1979年(昭和54)
    • 監督:山本薩夫
    • 主演:大竹しのぶ

写真34

  • 「日本人たる前に亜細亜(アジア)人であらねば成らぬ」
写真35:自筆の書
川島芳子記念室
写真33
概要
  • 第2次世界大戦の日本の敗戦後、日本陸軍のスパイとして活動した容疑で中国・国民政府軍に1948年(昭和23)、42歳で処刑された「川島芳子」の生涯をたどる。
  • 川島芳子は中国の王族の娘で養父に日本で育てられ、16歳から松本に住んだ。
  • 同じく王族の川島廉子(愛新覚羅廉'金呂'/あいしんかくられんろ)も妹として育てられた。(実際は芳子の姪にあたる)
    • 廉子の新聞のインタビュー記事(1988年・昭和63)がある。中国で結婚、苦難の人生をたどり、当時の7年前に松本に戻った。当時75歳。1994年(平成6)に亡くなっている。
    • 廉子の娘の書いた本 「望郷―日中歴史の波間に生きた清朝王女・川島廉子の生涯」
    • 廉子は松本時代に日本国籍を取っており、芳子も日本国籍を取っていれば、処刑されることはなかっただろうといわれている。
日本浮世絵美術館

写真25

写真24

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写真5

写真4

写真3

写真2

写真1

諏訪湖

写真30:工女たちが越えてきたルート

写真32:映画、演劇のポスター

写真37:リニューアル前

シベリア抑留展示コーナー
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概要
  • 第2次世界大戦終結後、シベリアに抑留の関連品が展示されている。(リニューアルで規模縮小(2007.07時点))
  • リニューアル前の展示
    • 体験者の絵画
    • 日本に帰ることができた人たちの補償のために尽力したロシア人、エレーナ・カタソノア女史(49歳)の記録。
      • エレーナ著「シベリアに架ける橋」より
        • 私が全抑協の仕事を引き受けたとき、何人ものロシアの友人から「第二次大戦でソ連は約2000万人もの犠牲者を出した。
        • ロシア人なら先ずロシア人の霊を弔うのが筋ではないか。
        • 貴女はロシア人のくせになぜ日本の抑留団体等で働くのだ」と詰問された非難めいた言葉が嫌でも耳に入ってくる。
        • そのたびに私はこの様な単純な見方に憤りを覚える。
        • 死んだ者たちに対して同国人・異国人の別け隔てなどあり得るだろうか。
        • シュムシュ島(カムチャッカ半島の南)」の露日合同慰霊碑が全人類的な人道理念を鮮やかに表現している。
        • ロシア人兵士の遺骨がいまだに葬られることなく、森や沼や草原にたくさん放置されていることや、死亡した日本人が墓のないことは私たちの大きな悲しみであり大きな不幸なのである。
        • だからこそ露・日両国民は死んだ人々に対する共通の同情と慈悲の心で一緒に団結してその霊を弔わなければならない。

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■記念スタンプ

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■長野県松本市歴史の里の情報、地図、概要

松本市歴史の里
MATSUMOTO CITY OPEN-AIR ARCHITECTURAL MUSEUM
長野県松本市島立(しまだち)
地図地図
撮影日:リニューアル前=2004/08/13 後=07/7/27
写真1
概要
  • この歴史の展示をよく味わうと、なにやらここに歴史の流れが渦巻いているようにも思えてくる。
  • 開館時間:9:00AM-5:00PM
  • 休館日:月曜日、12/29-1/3
  • 入館料:400円
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写真31:単行本

写真2:遠景

写真3:中庭