- この一帯、恋ヶ窪谷の歴史
            
              - 誕生:
              
                - 今からおよそ10万年前、多摩川は扇状地を造ってしばしば流れを変え、ここはその流路の一つだった 
 - 5万年程前、氷河期が訪れると海面が低下し、多摩川は流れが急になり、扇状地を削って崖(国分寺崖線)を造り、武蔵野台地と多摩丘陵の間に流れが固定した 
 - そして、かつての流路には、台地に降った雨水や湧水が集まり小川となり、崖のところで滝となって本流に注いでいた 
 - この小川により削られて谷がつくられたそれがここ恋ヶ窪谷である 
 - この頃、本流で洪水がおこると、逆流して谷の出口に砂利が溜まり、2万年程前には、谷は塞がれて細長い湖になった 
 - その後、土砂が流入し、湖はアシが生い茂る沼となり、歴史時代まで存続したと考えられている 
  
               - 消滅と復元:
              
                - 恋ヶ窪谷の水に恵まれた自然は、湿地が水田となり、里山自然に姿をかえて40年ほど前まで受け継がれていた 
 - その後、都市化が進む中で雨水は浸透しなくなり、湧水は減少し、湿地は埋め立てられた 
 - 数万年にわたって受け継がれた自然は、わずかこの40年程で失われた 
 - それは、かつての健全な水循環が失われたためである 
 - 特に、貯水量が大きく流動がゆるやかで、水循環を安定化させる地下水が減ったことが原因である 
 - 市では、水循環を再生するため、国、都の補助や市民の協力により、住宅地に雨水浸透ますを設置している 
 - 地下水を増やし、湧水を守る努力の成果の一つとして、かつての湧水地を再生したものである 
  
              
             - 姿見の池の由来:
            
              - 鎌倉時代、恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であった頃、遊女達が自らの姿を映して見ていたという言い伝えによる 
 - 江戸時代に描かれた「江戸名所図絵」に登場するこのあたりの風景の中に、姿見の池と思われるものが描かれている 
 - 昭和40年代(1965〜)に埋め立てられたが、1998年度(平成10)に昔の池をイメージして整備された 
  
             - 恋ヶ窪用水
            
              - 1657(明暦3)年(江戸時代前期)に田の灌漑用水のため、玉川上水から分水してつくられた 
 - しかし、ほとんどが埋め立てられ、ここも汚水が流れていた 
 - 里山の自然を復元するため昔の用水をイメージして整備された
              
            
  
            
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