写真4,5

松本城
旧司祭館

写真3

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■鬼瓦と風見(左)

■新築当時の校舎の復元模型

■天井の照明

フレーベル (教育家)
  • 1782-1852(江戸時代)
  • 1782年、ドイツの片田舎で牧師の末っ子として生まれた。
  • スイスの教育家ペスタロッチから教えを受ける。
  • 1837年、世界初の教育遊具「Gabe (ガーベ)・恩物 (おんぶつ)」を考案製作
  • 1840年(日本-江戸時代後期)には「キンダーガルテン」という世界最初の幼稚園を誕生させた。
    • 英語の幼稚園「kindergarten」はこのドイツ語から来ている。
  • フレーベルは、すべての親や保母に、花園の一本一本の木や花の芽を注意深く摘んだり、枝を切ったり、除草したり、適当な時期に適当な肥料を与え、どれも十分に ・・・ と庭師のような役割を要求している。
恩物の一部(第1から第20まで種類がある)
子守児童の遊戯
  • 明治30年代(1897〜)
  • 明治時代、子守の奉公に出されて学校に行くことができない子供は、たくさんいた。
  • この子守りを仕事としている子どもたちが、学校の周りに集まって、体操のまねや学校唱歌を口ずさんでいるところを、開智学校の教師が見て、放課後、簡単な授業を始めた
  • そのことから子守教育所が始まったといわれている。
  • 何とも心が温まる話ではないか。
社会科の誕生
  • 戦後に新しくできた科目、「社会科」の教科書は、1947年(昭和22)、アメリカのヴァージニア州の社会科教科書を参考にして、文部省から「村の子ども」(5年用)、「土地と人間」(6年用)が出版された。
  • 児童の生活の経験をもとに、自分の身近な集団から地域の社会へ、更に国際社会へと視野をひろげ、互いに助け合って成り立っている社会生活について理解させ、また、基本的人権について目覚めさせることを目的とした社会科が、戦後日本の民主化や人間形成に大きな影響を与えた。
子守教育所の授業風景
  • 1934年(昭和9)
  • 子守の雇主の配慮により、一定の期間奉公しながら子守教育へ通うことができた。
    • もしかしたら配慮しない雇主もいただろう。
  • 保母が幼児を送り出した後、午後1時〜3時までの2時間指導した。
  • 学用品は貸し与えられ、授業料は無料だった。
青い目の人形 Jeanちゃん
  • 明治以降、日本国内の生活が苦しいため、アメリカへ移民する日本人が急増した。
  • 日本人の安い賃金での労働と仕事への勤勉さに仕事をとられてしまうと恐れたアメリカ人の労働者は、日本人移民を締め出した。
  • そんな時代に宣教師のシドニー・L・ギューリックは、日本には『雛祭り』という習慣があると知り、人形を通じて日米親善をはかろうと考えた。
  • 1927年(昭和2)、この考えに賛同した人々が、アメリカ各地の子供たちから人形を集め、一つ一つの人形に名前をつけ、手作りの服を着せ、パスポート、ビザを持たせて日本の小学校・幼稚園に贈った。
  • お腹の部分に発声装置が組み込まれていて、人形の体を起こすと目を開いて「ママー」と声を出すようになっている。
  • 松本幼稚園にもジェーンちゃんが来た。
  • ジェーンちゃんには「人形を受け取られる方へ」というギューリックからの手紙がついていた。
  • 手紙には「この人形を3月3日の雛祭りに参加させてほしい」と書かれてあったので、松本幼稚園では、毎年4月(松本は月遅れのため)にはお雛様と一緒にジェーンちゃんが飾られ、桃の節句とジェーンちゃんの話を保母が園児に話して聞かせた。
  • しかし、1941(昭和16)年からの太平洋戦争中に「日米親善の象徴」だった人形たちは、大部分が処分されてしまった。
  • しかし長野県内では25体が残った。 →諏訪教育博物館(諏訪市)に現物がある。

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■長野県松本市旧開智学校の情報、地図、概要

旧開智学校の設計・施工 立石清重(たていしせいじゅう)
  • 1829(江戸)-1891(明治24)
  • 先祖代々、大工の棟梁を継ぐ家に生まれた清重は、松本藩の仕事も請け負っていたが、近代建築という新しい分野にも挑戦していった。
  • 大きな建物といえば松本城しかなかった松本の街には、彼の手による大規模な官公舎が、次第に立ち並んでいった。
  • 享年65歳。墓所は林昌寺(松本市女鳥羽1丁目)
筑摩県権令(ちくまけんごんれい) 永山盛輝(ながやまもりてる)
  • 1871年(明治4)廃藩置県により信州に二つの県ができた。
  • 東北信の「旧長野県」と中南信・飛騨を合せた「旧筑摩県」。
  • 筑摩県最初の権令(現在の県知事)が鹿児島県出身の永山盛輝。
  • 永山が最も力をいれたのは、教育だった。
  • 県内の町や村をくまなくまわって、人々に学校の重要さを説き、その結果、筑摩県の就学率は全国一といわれるようになった。
  • 4年後の1875年(明治8)11月、永山は新潟県権令となって松本(筑摩県の県庁所在地)を去った。

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■2階の講堂

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写真5:建物全景

旧開智学校
きゅう かいち がっこう
国宝
長野県松本市開智2丁目
地図地図
撮影日:P1,5=2004/8/12 P2〜4=06/8/18
写真1
概要
  • 1873年(明治6)に開校した擬洋風建築の小学校の管理棟。
    • 擬洋風建築:日本の大工が伝統的な技術を駆使して洋風建築を建てたもの。
  • 日本の擬洋風の代表的な建築とされている。
  • 国の重要文化財
  • 1962年(昭和37)まで使われ、翌年に現在の場所に移築された。
  • 建てたのは、松本の大工の棟梁、立石清重(たていしせいじゅう)で、清重は、建設の前に上京して擬洋風建築を見て廻り、デザインのヒントにした。
  • 和洋渾然となった感じが、たまらなくいい。
  • 教育の歴史の資料が数々あり、興味深い。
  • 開館時間:8:30AM-5:00PM
  • 休館日:月曜日、祝日の翌日、12/29-1/3
  • 入館料:300円
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