| タイ | 
        
          | タイ王朝の歴史 | 
        
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            スコータイ王朝 (12〜15世紀)(日本-平安末期〜室町時代)
            
              タイが国家として成立するのは13世紀(日本−鎌倉時代)に起こったスコータイ王朝から。
          
              それ以前のこの一帯はクメール帝国(現、カンボジアの元)の勢力圏内にあった。
          
              第3代国王ラーマカムヘン(ラーマカムヘン大王)のときに強力な軍事力と政治体制を作り上げて最盛期を迎えた。
          
              しかし次王のルータイ王の時代から凋落しはじめ、勢力は次第に弱まっていく。
        
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            アユタヤー王朝 (1350〜1767)(日本-南北朝〜江戸時代中期)
            
              アユタヤーの町はスコータイ王朝時からすでに貿易の中心地として栄えていた。
          
              この地の利に目をつけたのが、ここから20kmほど北に位置するウートーン地方の支配者であったラーマティボディ。
          
              伝染病が流行したことをきっかけに同地を放棄した彼は、1350年(日本−南北朝時代)この地を”クルンテープ・タワーラーワディー・シー・アユタヤー”と命名して王国の都とし、初代国王となった。
              
              ラーマボディ王の崩御後アユタヤーはスパンナプーム王家、スコータイ王家、プラサートーン王家、バーンプルルアン王家、の4王家によって支配を受けるが、国家は順調に繁栄を続ける。
          
              しかし、1767年(日本−江戸時代中期)にビルマ軍の侵攻を受けて王都のすべてが破壊される。 
        
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            トンブリー(タークシン)王朝 (1767〜1782)(日本-江戸時代前期)
            
              ビルマの軍勢に占拠された王都アユタヤーを奪還したのは猛将として名高いタークシン。
          
              タークシンはアユタヤー陥落直前に兵団を率いてタイ南東部に退去し、兵力を再統合して都を急襲。
          
              この作戦によってビルマ軍は、完全に撃破されて駆逐される。
          
              その後、廃墟となったアユタヤーに見切りをつけ、約80km南方のトンブリーに都を遷(うつ)し、みずからの王朝を開いて王位に就く。
          
              しかし晩年は極度の精神錯乱状態に陥り、寺院内に強制収容され処刑される結果に。
          
              悲惨な最期を遂げた15年間1代限りの国王であった。
        
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            チャクリー王朝(現王室)
            
              開祖ラーマ1世
              
                1782年(日本−江戸時代中期)、トンブリー王朝時におけるタークシン王の配下であったチャオプラヤー・チャクリー将軍が、精神に異状をきたした主君のタークシン王を処刑した後、後継者として王位に就いた。
            
            
                ここからチャクリー王朝が始まる。 
            
                チャクリー将軍はプラ・ブッタ・ヨートーファー・チュラロック・マハラット(ラーマ1世)と名乗り、同年4月6日に正式に即位。 
            
                この日は現在”チャクリー王朝記念日”として祝日になっている。 
            
                都をこれまでのトンブリーからチャオプラヤー川東岸へと遷都し、”クルンテープ・マハナコーン・・・”と名付けた。
                
                王は破壊されたアユタヤーの寺院からレンガを運び込んで新都に王宮を造り、守護寺ワット・プラケオを建立した。  
          
              ラーマ2世、3世
              
                詩人としても名高いラーマ2世(プラ・ブッタ・ラートラナパライ)は1790年(日本−江戸時代中期)に即位。
            
                王は1824年(日本−江戸時代後期)に即位したラーマ3世とともに、2代にわたってバンコク市内に以前からあった古い寺院を修復し、さらに新しい寺院を数多く建立する。  
          
              ラーマ4世 −−−近代化の礎 (『王様と私』の王)
              
                ラーマ2世の王子であり、ラーマ3世の異母弟であるモンクット王。
                
                  1851年(日本−江戸時代末期)即位。
              
                  20歳から出家し、その後27年間僧院生活を送っていた。
              
                  乱れ始めていた仏教を正すリバイバル運動をみずから起こしタマユット派(タマユットニカーイ)を生み出した。
              
                  父ラーマ2世から血統的に最高位の王位継承権を持ちながら、権利をラーマ3世に譲って出家していた学究肌の人。
              
                  これまで受け身一方の貿易による収入では国家の自立は不可能と判断し、1855年(日本−江戸時代末期)にイギリスと通商条約を締結して(ボウリング条約)、それまでの鎖国的状況から門戸を開いた。
            
                「王様と私」の王
                
                  ボウリング条約締結時に正式国名となったシャム国の発展のためには西洋式学問と文化による近代化が必要と考え、王族や貴族の子女に盛んに外国語と西洋分かを学ばせた。
              
                  このうちラーマ4世が自分の子供たちの家庭教師にと、1862年(日本−幕末)にシンガポールから雇い入れた女性がイギリス人アンナ・レオノウェルズであった。
              
                  彼女はマーガレット・ランドンの小説『アンナとシャム王』のモデルであるが、この小説の元ネタになった彼女の宮廷生活を書き綴った自伝は、本人の身の上話からすでに嘘で塗り固めた欺瞞に満ちた自慢話であるらしい。
              
                  この小説を舞台化したのがブロードウェイミュージカル『王様と私』である。
              
                  王がアンナと手を取りながら踊るダンス.シーンは有名だが、実際に王はダンスが上手であったといわれている。しかしアンナを雇い入れた頃はすでに高齢で、あれほど元気よく踊れなかっただろうということである。
              
                  「国王がイギリス人女性なんぞに指図されてたまるものか」という理由によってこの「王様と私」及び1999(平成11)年にチョウ・ユンファとジョディー・フォスター主演でリメークされた「アンナと王様」はタイ国内で上映上演禁止。 
              
            
                ラーマ5世 −−−タイ国近代化の立役者
              
                ラーマ4世がマラリヤで崩御すると、1868(明治元)年にチュラロンコーン大王ことラーマ5世が15歳で即位。
            
                タイ国民なら誰でもその名と功績を知っている歴史上の英雄。
            
                司法・行政改革を断行。ヨーロッパ諸国の制度を見習って1874(明治7)年に国政協議会と枢密院を創設。
            
                1892(明治25)年には各省庁を作り、1894(明治27)年には地方を分県・再編成して現在も続く中央集権制を確立した。
            
                また国全体の近代化のためには教育の普及が不可欠と考え王族/一般用の学校を創立し、奨学金制度も導入して国民の啓蒙に努めた。
            
                電信電話業務を創始して現代情報網の基礎を作り上げた。
            
                バンコクから250km離れた東北部の町ナコーン・ラーチャシーマまでの鉄道を敷設して国内で初めての機関車を走らせた。
            
                長年にわたって続けられてきた不自由(貨幣代わりに取引される労働者)制度の廃止。
                
                  幾多の抵抗に阻まれながらも1905(明治38)年4月、30年もの歳月をかけてようやく達成された。
            
                5人の王妃と160人以上の側室がいたといわれ、奔放さの許される最後の王であった。  
          
              ラーマ6世 −−−文化功労者
              
                ラーマ6世(ワチラウット)は文化.文芸の才に優れた王であった。
            
                歴代国王を「ラーマ*世」と呼ぶことに決めたのはこの王。
            
                9年にわたるイギリスでの海外留学後、1910(明治43)年11月に即位。
            
                ボーイスカウトや赤十字協会を創立。
            
                1917(大正6)年10月に国旗をエラワン白象旗から現在の赤白青の3色旗に変更。
            
                仏暦を導入して祝祭日を制定。
            
                チャオプラヤー川にかかる最初の橋の建設に着工。
            
                ドン・ムアン空港(バンコク国際空港)を整備。
            
                シャム国初の銀行を創設。
            
                1912(大正元)年に名字令を制定し国民に名字を持つようにすすめた。
            
                1921(大正10)年に小学校令を定め、義務教育もこの時に導入された。
            
                1917(大正6)年7月22日に第一次世界大戦に連合国側からの要請により参戦。これにより、国際連盟に加盟。
            
                文学演劇の造詣が深く、シェイクスピア戯曲をタイ語に翻訳したり、日本を題材にした小説を書いたり、みずからも演技された。
            
                しかし、文人によくありがちなことだが、国家財政の管理はきわめて放漫であったらしい。 
          
              ラーマ7世 −−−絶対王政の終焉
              
                ラーマ6世の弟ラーマ7世が王位に就いた時期、チャクリー王朝が最大の危機を迎える。
            
                王室予算を最盛期の1/3に切り詰め、国家予算節約のため官吏の大幅人員削減を行った。
            
                1932(昭和7)年6月24日、王がシャム南部の町ホアヒンの離宮にて保養中に、人民党による立憲革命が起こり、以後シャム国は王を国家の象徴とした立憲君主制国家として生まれ変わった。
                
                  実は、この革命以前から絶対王政の未来に悲観的であった王は、みずから立憲民主制国家への移行を検討していたのだが、王族の強烈な反発にあい、実現せずに終わっている。立憲民主国家の樹立は時代の流れの必然であったかもしれない。
              
                  6月27日に臨時憲法を、12月10日に新憲法をそれぞれ公布し、絶対王政をみずからの手で葬り去った。
            
                王は翌年、眼病の治療と称してイギリスに赴き、1935(昭和10)年、王座から降りてしまう。
            
                1939(昭和14)年6月にシャムからタイに国名変更されたが、タイに二度と戻ることはなく、1941(昭和16)年にイギリスで亡くなられた。  
          
              ラーマ8世 −−−悲劇と謎
              
                ラーマ7世は子宝に恵まれず、直系の家族がいなかったので血統を追っていった結果、ラーマ7世の異母兄弟であるソンクラーのマヒドン王子を父に持つアナンタ王子がラーマ8世として1935(昭和10)年3月に即位された。
            
                当時10歳であったため学業を続けるために王位継承以前からの居留地であったスイスにとどまることにされ、王室はラーマ8世の摂政(せっしょう)が管理することになる。
            
                学業を終えて王が帰国されるのは1946(昭和21)年6月になるのだが、同年6月9日午前9時頃、王はボロマビマン宮殿内で銃弾による謎の死を遂げた。 
            
          
              ラーマ9世 −−− 働く英知の王
              
                ラーマ8世の弟プーミポン・アドゥンヤデート王子は、兄ラーマ8世の崩御12時間後に19歳で即位する。
            
                教育課程を完全に終えていなかったため、再びスイスに戻って学業に専念する。 
            
                帰国は4年後の1950(昭和25)年。
            
                同年4月28日にラーマ5世からの遠い親戚にあたる17歳のシリキット嬢と結婚式を挙げ、さらに5月5日、正式に王位を継承したことを示す盛大な式典を執り行った。
            
                王は立憲民主化による王政の危機/権力喪失を、政治家たちがクーデターを成功させるために王政を利用したことを逆に利用して回避し、1970年代に起こった学生による改憲運動や近隣諸国の共産化による国家的危機を王自身の機転と英知で乗り越えた。
            
                王は常に働いている。
                
                  王宮内で農作物の研究を続け、ヨットを作ってレースに出場し、楽器を操って作曲、どこへ行くにもキャノンの一眼レフを離さず、油絵を描き、映画も作るといった多彩な趣味を発揮。
            
                在位期間も60年を超え、歴代国王の中で最長。
          
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          | 2011/2001 | 
        
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