歴史
菱垣廻船 ひがきかいせん
  • 江戸時代、大坂(現・大阪)から江戸に生活物資を輸送した菱垣廻船問屋(どいや)廻船
  • 樽廻船とともに、江戸〜大坂間の海運の主力だった。
  • 使われた船は弁才船(べざいぶね)と呼ばれる帆船で、積載量から千石船(せんごくぶね)といわれた。
  • 菱垣の名称は、積荷が落ちないように舷側(げんそく)につけた垣立(かきだつ)の下部を菱形の格子に組んだことに由来し、これがトレードマークとなっていた。
  • 歴史
    • 1619(元和5)年(江戸時代初期)、和泉国堺の商人が紀伊国の250石積の廻船を借り受け、大坂から江戸に日常物資を運んだのが菱垣廻船の始まり。
    • 1624(寛永元)年、大坂北浜の泉屋平右衛門が江戸積船問屋を開業。
    • 1627年、5軒が開業し、大坂に菱垣廻船問屋が成立した。
      • 初めは紀伊や摂津の廻船を雇い、木綿・油・酒・酢・しょうゆ・紙などを輸送していた。
    • 上方(かみがた)〜江戸間の商品流通の発達に伴い、1694(元禄7)年(江戸時代前期)、江戸の仕入れ荷主が商品別に十組(とくみ)問屋を結成し、大坂にも江戸十組問屋の注文で積荷の買い継ぎを行う二十四組(にじゅうしくみ)問屋が作られると、廻船はこれらの問屋に所属するようになった。
    • 1730(享保15)年(江戸時代中期)、十組問屋から酒問屋が独立し、酒樽輸送専門の樽廻船を運航させた。
      • 樽廻船は酒樽のほかに、本来菱垣廻船が扱うべき雑貨を低料金で積みこんだため、両廻船の間でしばしば紛争が起きた。
      • このため1770年(明和7)に両者が協議し、どちらかの廻船だけが積める品物と両方が扱える品物を確定する積荷仕法が決められた。
      • しかし、樽廻船の規則違反が続き、菱垣廻船の衰退は進んだ。
    • 隆盛期に百数十艘(そう)あった菱垣廻船も、1825(文政8)年(江戸時代後期)にはわずか27艘にまで減少した。
      • 天保の改革で株仲間の解散が命じられて菱垣・樽両廻船問屋は解散し、積荷仕法も撤廃された。
      • 以後、廻船は自由営業となって樽廻船が海上輸送を席捲(せっけん)することになる。
  • 参考:エンカルタ2007
■菱垣廻船の模型・・・江戸東京博物館江戸ゾーン(東京都墨田区)

2010/12/10
2011.06.10

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